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『大東京カレンダーmoney 綾奈35歳』より(嘘)
トランプvs.バイデン(T.v.B)
T.v.B
総理辞任ー性別、年齢や国籍、人種、そして持病など、「じぶんの力ではどうにもならないこと」を云々してはならない、という話。
総理が辞任とのこと。
いわゆる右派的なイメージで支持を集めながら中道左派的政策を実行した、非常にユニークな政権であった。長期に渡り政権を維持し、長年官僚主導といわれた政官の関係を(よしあしはともかく)官邸主導に持っていった手腕などとともに、功罪含め、政権運営の学問的分析・研究が期待される。
総理辞任に伴うTwitter世論を見ると、ほぼ「お疲れ様でした」と全面的に労う声ばかりなのが日本人論として興味深い。
原著は未確認だが、第二次世界大戦中の話として、「日本軍は亡くなった兵士は非常に丁重に扱うし時に大きな犠牲を払って遺骨回収するが、兵士が生きている間は決して大切にしない」傾向があった、という。
亡くなった兵士と同列に論じるのは不適切だが、総理在任中はさんざんこき下ろした人すら、辞任した途端に丁重に労うという日本人の心証というものは、昔から変わらないのであるなあ、と思う次第である。
もちろんぼく自身も日本文化の中で育っているので、政治信条とは別に、「お疲れ様でした」という気持ちは一緒だ。
要は、在任中だろうが辞任後だろうが、どの人に対しても最低限の人としての礼節を持って振る舞うべきだろうという話である。
Twitterで今炎上している発言がある。
持病をあてこする形で総理辞任に言及した、とある議員のツイートだ(本筋ではないので匿名で扱う)。
それを見ると、「人として最低限の礼節を持って振る舞う」ことの基本ルールが見える。
非常にシンプルで、「他人に対して、じぶんの力でどうにもならないことをああだこうだ言わない」ということだ。
生きていると、じぶんの力でどうにもならんことは山ほどある。
性別、年齢、出身地、国籍、人種や家族のことや持病などなど。
そうした「属性」、「じぶんの力でどうにもならないこと」を他者がああだこうだ言わない、批判の対象にしない、というのはシンプルだが大事なことだ。反差別運動の根っこはそこにある。
外見で他者を判断するルッキズムへの批判も同様である。
顔の作りや身長、体型などで他者を批判や賞賛してはいけない、というのが反ルッキズムで、そうした顔の作りなどはまさに「じぶんの力でどうにもならないもの」だからだ。
批判や賞賛は、努力や学習によってどうにかなる仕事や立ち居振る舞いなどの可変な部分にのみ集中することが「人として最低限の礼節」というものである。
だからもし、男性諸氏がどうしても女性のことを褒めたければ、「お綺麗ですね」と、先天的・表面的なところを褒めるのではなく、努力により得たスキルの部分を褒めるべきである。要は「お綺麗ですね」というのではなく「素晴らしいお化粧スキルですね」と褒めれば失礼にあたらなうわなにをするやめろ苦しい痛い息が出来ない苦しい苦しい苦しいくる(日記はここで途絶えている)
『半沢直樹』は現代のシェークスピア劇である。
〈「言葉だ、言葉、言葉。」〉(『ハムレット』第二幕第二場)
人気ドラマ『半沢直樹』を観ていて、これはシェイクスピア劇だ、と気づいた。
内容が、ではなく表現形式が、である。
〈「ハムレット」劇中劇の場で、観客の一人ハムレットが「芝居を聴こう」Let us hear the play というが、この通り(シェークスピアの時代には)見物ではない、聴衆だったのである。〉(『ロミオとジュリエット』新潮文庫内収載 中野好夫氏による解説)
〈私はロンドンでシェイクスピア劇が演じられるのをいくつか見ましたが、そこにはほとんど間というものがない。整然とたゆみなく、せりふが頭上で鳴りひびいているという感じです。ただせりふの速度が早いばかりでなく、それを受け渡しする心理的速度が早いのです。〉(『ハムレット』新潮文庫内収載 福田恒存氏による『シェイクスピア劇の演出』)
つまり、シェイクスピア劇というのは次から次へと展開される名文句に酔うためのものであり、『半沢直樹』はそこが似ているなあと思った次第である。
だから「クラウドにバックドアを仕込む?何を言ってるんだろう」とか「世間がサプライズ人事としてビックリする白井議員の国土交通大臣就任や帝国航空債権放棄策を事前に大和田氏だけが知っていて、“火中の栗“となるのを察知して自らは距離を置き、半沢に押し付けた、というのは無理がないか」とか「大銀行の役員室って、あんなに簡単に盗み聞きできる構造なのか」とかはどうでもいいことで、視聴者は次から次へとテンポよく繰り出されるちょっと大げさなセリフ回しにただひたすらに酔えばよいのである。よう知らんけど。
裸のナンを持つ男。
生ハムの原木とナンの共通点をご存知だろうか。
共通点は、勇気。生ハムの原木もナンも、それを持つ者に勇気を与えてくれる。
そこに一枚のナンがあった。そのナンが全てを変えるなんて、その時のぼくは気づくこともなかった。
週末にデリバリーのカレーを頼んで、ナンだけが残った。ぜんたい、日本のインドカレーではナンが多めなのだ。
週も半ばだし、このまま冷蔵庫で朽ちていくのももったいない、とその朝ぼくはナンをカバンに放り込んで出かけた。
ナンをカバンに忍ばせた男は一味違う。
夏の日射しが強くとも、「インドに比べればこのくらいなんでもない。なんと言ってもオレはナンを持っているのだからな」とやり過ごせる。
仕事でトラブルになっても、「些細なもめごとなどインド悠久の歴史に比べれば大したことはない。みなは知らないが、オレはナンとよろしくやっている男だぞ」と平常心を保てる。
不躾な営業電話がいきなりかかってきても、「相手にしているヒマはない。なにしろ昼にはナンが待っているのだからな」とスルーできる。
ナンをカバンに潜ませると、力が湧いてくるのだ。
食べ物を隠し持つことが現代人に生きる力を与えてくれることは、2019年にすえきち@27/31@flowertoman氏によって報告された。
金字塔となった論文より引用する。
〈生ハム原木が家にあると、ちょっと嫌なことがあっても「まあ家に帰れば生ハム原木あるしな」ってなるし仕事でむかつく人に会っても「そんな口をきいていいのか?私は自宅で生ハム原木とよろしくやってる身だぞ」ってなれる。戦闘力を求められる現代社会において生ハム原木と同棲することは有効〉
生ハム原木と同棲することが勇気を与えてくれるというこのインサイトは、多くの人に影響を及ぼした。生ハムだけに波紋を呼んだわけだ。
ナンをカバンに隠して街に飛び出すというのは、生ハム原木同棲を一歩前に進めたライフハックである。
現実問題として、生ハム原木を手に持って外出するわけにはいかない。生ハム原木を肩に担いで道行けば、はじめ人間ギャートルズと間違えられてしまうからだ。
だが、ナンをカバンに隠して道を行けば誰にも気づかれない。ナンは平たくてカバンにも収まるし、なんならタブレットと一緒に持ち歩いても自然だ。パソコンのそばに置いておいたって、マウスを載せておけば誰にも気づかれない。
誰にも気づかれずにナンを隠し持てば、現代人なら誰だって思うはずだ、「そんな口をきいていいのか?オレのバックには大きなナンがいるんだぞ」と。
このように、思わぬ食べ物を隠し持つということは、日常に勇気と驚きを与えてくれる。
もしかしたらこれが、ロシア・フォルマリストたちの言う『異化』作用なのかもしれない。
誰にも知らせずに思わぬ食べ物を隠し持つというムーブメントは、現代人のライフハックとして今世界中に広がりつつある。
今この瞬間も、ニューデリーでは「そんな口をきいていいのか?お前は知らないが、オレは今、ジャパニーズ・ライス・ボールakaオニギリを隠し持っているんだぞ。yes,ニンジャ・サムライ」と言っている若きインド人ビジネスマンが活躍している。
全然まったく関係ないが、インドのインディーズ音楽シーンでは、「ナンズ・アンド・ローゼズ」というロックバンドが、「ウェルカム・トゥ・ザ・ベンガル」というカバー曲を大ヒットさせていたりしないのだろうか。
それでは皆さま良い一日を。だいじょうぶ、ぼくらにはナンがついてる。
肉欲に溺れる夜~『大人の大東京カレンダー 綾菜』より
朝活女子は今日もたいへ〜ん!ぜったいナイショなんだけど、最近、肉欲に溺れているの。
情念の炎に身を焦がし、最後はきみと一緒に…。こんな気むち、はじめて…。
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フォロワーのみんなも、肉欲に溺れてみてね!チャオ!ー『大人の東京カレンダー 綾の物語より』(嘘)